岡崎市中心部を流れる乙川の、殿橋と明代橋の間に、「桜城橋(さくらのしろばし)」が開通しました。一見、木でできているように見えますが、れっきとした、コンクリートと鉄の橋です。岡崎産の私有林から伐採してきた材木で橋を覆っていますので、渡るとヒノキの良い香りが漂います。 
(桜城橋は、人が通る、公園緑地内の橋です。自動車は通ることができません)

元々、殿橋と明代橋が老朽化していて、新しい橋を架ける、という案が浮かんでいたのですが、県と市の話し合いにより、二つの橋は補修して継続使用、そして今回、人出の多い岡崎公園(乙川緑地)に、橋を一本架けることが決まったのが、今から6年前。

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桜城橋完成式典

まずは、市長さん、県知事さん、議員さんの挨拶があって、テープカットのち、渡り初めが行われました。
(本来は、橋の上でキッチンカーの営業、保育園児の鼓笛隊演奏もあった予定ですが、コロナウイルスの影響で中止になりました。)

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徳川四天王像(2体)完成式典

橋の反対側(北側)の緑道には、「天下の道」という通り名称がつけられて、現在開発中ですが、その道の端に、2体の石像が置かれることになりました。続いて、その除幕式です。

石像を作成した、大野幾生氏のスピーチより

6年前に、乙川リバーフロント推進課に、「徳川四天王ポーズ決め会議」が立ち上がった。
観光協会、商店組合、美術博物館の江戸期の学芸員、時代考証の専門家、有識者、そして私。四天王という武将を、どのような武将として、どんな合戦のどんなシーンをクローズアップするのか、どのように彫像するのかするのか審議をしていた。
そんな中、幼稚園、小学校、中学校、高校、一般の方を対象に、徳川家康公像デザインコンクールがあり、市民の多くの方に参加してもらった。
歴史を重んじ、郷土の偉人を大切にすることを通して、岡崎市を知る機会に、という思いと、多くの方々の直接の参加をリバーフロントとして生かしていきたいという思いもあった。
像の原型製作に関しては市長さんから直接依頼があったので、私が原型製作を行った。原型を製作するに当たって、家康館を見て回ったり、学芸員から細かい資料集めをしてもらった。そういう中から作品を作っていくことになった。そのような経緯もあって、一つずつ、細かいところまで作品制作に臨んだ。

酒井忠次像に関しては、ほかの三人に比べて年上だったので、甲冑が、江戸期特有のものではなく、一つ古いものなので、縛り目やその着方など、細かい資料を基に作っていった。

80センチの粘土像を作るにあたって、時代考証の先生に何度も見てもらって、なるべく史実に近い像を製作していくところが大変だった。
石像で使う石を見つけるのも大変で、ビルの3階くらいに道を作って発破、切り出してみると納得いかない部分があったので、さらに地下深くまで掘っていき、これが一番の石だ、というものを使っている。
伝統工芸士の職人も、実に丁寧な仕事をしてくれた。岡崎に唯一、石材加工を指導する訓練校は、全国でもに一か所しかない。全国の石屋さんを育ててきた、岡崎の技術で作られた像である。
他の像と特徴が違っているところは、台座。全国の武将像は、四角や丸い台座の上にただ乗っているものがほとんどだが、この像は台座にも、武将の場面を物語らせている。一見何気ない台座に見えるが、台座こそ、かなり技術の高い職人さんじゃないと出来ない仕掛けをしている。市民の皆さんの、岡崎を愛する気持ち、思いやり、その意思の表れがこの像。兜の飾りや刀、槍に関しては、岡崎市内の鋳造所の職人さんが製作した。この像は、職人さんの技術の終結であるといえるだろう。


四天王像は、今回は2体設置されましたが、残り2体は、2020年12月ごろ設置予定だそうです。

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伝説の太鼓/酒井忠次

徳川四天王の中で最も年長で、徳川家康より15歳年上。
1572年、三方ヶ原の戦い(現在の静岡県浜松市)で、家康は隣国の武田信玄に大敗し、当時の本拠地・浜松城(静岡県浜松市)に逃げ帰った。
城が意気消沈する中、このとき46歳の忠次は一計を案じる。すべての城門を開いて篝火(かがりび)を焚き、櫓の上で太鼓を打ち鳴らして味方を鼓舞した。追撃してきた武田軍は伏兵を疑い引き返したため、家康は人生最大の危機を脱したと伝えられる。
この姿は、その時の勇姿を再現したもの。

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家康に過ぎたるもの/本多忠勝

徳川家康より6歳年下、同じ四天王の榊原康政とは同い年。生涯57回もの合戦で一度も負傷しなかったと伝えられている。
1572年、一言坂付近(現在の静岡県磐田市)で、家康は隣国の武田信玄の大軍に出会い、当時の本拠地・浜松城(静岡県浜松市)に引き返した。このとき25歳の忠勝は殿を務(しんがり)めて追撃してくる武田軍を食い止め、一兵も損じることはなかった。その戦いぶりは、武田方から、「家康の家臣にしておいてはもったいない」と称賛されたと伝えられる。
この姿は、その時の勇姿を再現したもの。

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ようやく通れました♪

式典の終わった後、お昼の12時くらいに、ゲートが取り払われ、一般の人も通ることができるようになりました。

この橋はもともと、ただ渡るだけではなく、橋の上で休憩をしたり、ショッピングを楽しんだり、と、くつろげるような場所としてのコンセプトにより作られています。4月からは、橋の上にお店も出るそうです。

渡るのが楽しくなる橋、「桜城橋(さくらのしろばし)」に、いっぺん、こりん!


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