撮影日:2013年04月01日 10時26分
カメラ:メーカ=Panasonic モデル=HC-X900M

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浄瑠璃ヶ淵跡

今からおよそ800年ほど前、鎌倉街道矢作の宿に「浄瑠璃姫」というそれは美しい姫がいました。姫の出生については諸説ありますが、何れにしてもこの辺りの支配的立場にあった者の家に生まれたようです。
承安4年(1174年)、浄瑠璃姫16歳の春のこと、源氏再興の待望を抱き、金売り吉次を伴い東北地方きっての豪族藤原秀衡のもとへ向かう牛若丸こと「源義経」が旅の途中でこの矢作の宿に立ち寄り、折しも浄瑠璃姫の奏でる「想夫恋(そうふれん)」の琴の調べに名笛「薄墨」を合わせ吹いたのが縁となり、二人は別れを惜しむ仲となりました。
しかし、奥州へ下る身の義経は、再開の証にと母の常盤御前より送られた父の愛管「薄墨」を姫に預け、そのもとを去っていったのです。僅か十数日のはかない夢の日々でした。唯々、義経との再会だけを心の支えに待ち続けた姫の想いは、月日を重ねるほどにますます深まり、ついに心乱れて寿永2年(1183年)3月16日、この付近の岩場から乙川の流れに身を投じたのです。その死を痛く悲しんだ両親は、その近くの洞に観音像を祭り「穴観音」としてその霊を弔いました。
翌年の秋、木曽義仲を討つ旅の途中で姫の悲報を聞いた義経は、その霊を弔うために「瑠璃山明大寺」を建立し厚く供養したと言われています。しかし、この寺も今は無く、姫が入水した「足跡岩」も、「穴観音」も昭和56年(1984年)の堤防大改修で無くなりました。今となっては、明大寺の地名にこそ往時が偲ばれます。
なおこの句碑は、昭和39年12月に当時の愛知教育大学教授酒井英吾先生により、建てられたもので、義経の去った奥州に向けて据えられています。
句は、同学長内藤卯三郎先生の詠まれたものです。

散る花に 流れもよどむ 姫が淵   笈斗山人(おいとさんじん)

平成2年3月
岡崎市役所開発部公園緑地課

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