撮影日:2007年04月09日 15時30分
カメラ:メーカ=Panasonic モデル=NV-GS500

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古墳公園内にある祠は、かつて吉良家姫山陣屋の鎮守でした。
吉良義弥公がこの地、吉良乙川の姫山に陣屋を設け、
乙川、小山田、饗庭、鳥羽等の経営にあたらせ、
以降義冬公、義央公と続きました。
義央公の富好約百町歩の新田開発もこの陣屋が担当したものと思われます。
あの、不幸な(注)元禄事件(赤穂討ち入り)で吉良家が断絶したあと、
この地区は旗本津田家が受け継ぎ幕末まで続きました。
明治の初め、陣屋稲荷は有縁の人々によって、新田の見える正法寺古墳の中腹に移されました。
 
(注)一般的には赤穂側が正しいと思われている「忠臣蔵」、吉良家のお膝元である吉良の人々にとっては、
とても不幸な事件として捉えられています。
映画「忠臣蔵」も、吉良では上映されず、映画「四十七人の刺客」が、ようやく上映される程度でした。

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