最終更新日:2019年10月05日
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岡崎城天守閣

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元々の岡崎城と、東海道は、乙川の南側(現在の明大寺(みょうだいじ)地区)にありました。また当時はこの明大寺地区辺りが「岡崎」と呼ばれていました。
室町時代の享保年間(1452)から康正元年(1455)にかけて、西郷弾正左衛門頼嗣(さいごうだんじょうざえもんよりつぐ)、またの名前を清海入道が、乙川の北側の、龍頭山(りゅうとうざん)と呼ばれる地区に、砦を構えました。
その後、享保4年(1531)に、安城松平氏4代の、松平清康が、本拠地を、明大寺から現在地へと移し、本格的な城を構えました。
天文11年(1542)12月26日、岡崎城二の丸にて、徳川家康が誕生しました。家康は、幼少の頃、他国へ人質として過ごすことが多かったのですが、桶狭間の合戦を契機に、岡崎城に復帰します。
その後、家康が関東へ移封すると、豊臣家家臣の田中吉政が入城します。吉政は、家康の西上に備える重要拠点として、岡崎城郭の整備・拡張を行います。南側は元々、乙川が堀の役目をしていたのですが、それ以外の、東・北・西の外周にも、堀を巡らせ、また、沼地を埋め立て、近世の岡崎城の基礎を築きます。また、当時、乙川より南を走っていた東海道を、乙川より北の城下に引き入れ、矢作川に橋を架けたり、町や交通の発展を見通した、現在の岡崎の基となる都市開発を行いました。
江戸時代には、岡崎城は、「神君(しんくん)出生の城」として神聖視され、本多氏(前本多)、水野氏、松平氏、本多氏(後本多)と、歴代譜代大名が城主となりました。石高は5万石と少なかったのですが、5万石とは思えないほど(50万石相当ともいわれる)城郭はとても大規模で、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられています。
明治6~7年(1873~1874)、城郭は取り壊されましたが、岡崎城の荒廃を憂いた旧藩士により、保存活動が起こり、本丸・二の丸は、城址公園として整備されることになりましたが、それ以外の部分は、市街地となっていきました。
ちなみに、純情きらりの時代、昭和10~20年ごろは、岡崎城には天守閣はありませんでしたが、市民からの要望と、天守閣復興ブームにのっとり、明治初期の写真を元にして、現在の天守閣が昭和34年(1959)に復興され、3層5階の鉄筋コンクリート構造となっています。2階から4階は江戸時代の岡崎を紹介する展示室で、5階は展望室となっていて、三河平野を一望することが出来ます。

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本丸の石垣

岡崎城の中で、本丸の石垣は、最も古い石垣です。
石垣には、近所の花崗岩の自然石が使われています。
また、北側の面には、鏡石(かがみいし)という、幅2.1メートル×高さ1.8メートルの巨石が石垣に組み込まれていますが、これは、権力や経済力を誇示するために使われるそうです。


西郷弾正左衛門頼嗣こと、清海入道の名前が残る堀「清海堀」は、本丸と反対側は石垣が組まれているのですが、本丸側は、土塁のままとなっています。あと前々から気になっていたのですが、天守閣と裏手の曲輪とを結ぶ、堀にかかる橋があるのですが、「廊下橋」という名前が付いているそうです。これは、とても珍しい橋だそうで、現在は橋が石造りのアーチ状になっているのですが、これは大正9年(1920)に架け替えられた跡だそうで、江戸時代には屋根付きの、まさに「廊下橋」が架けられていたそうです。


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